#軽井沢から通勤するIT系会社員のブログ

2015年4月から軽井沢-東京で新幹線通勤中。遠距離通勤やテレワークの話題を中心に綴ります。軽井沢移住の裏話も。

コロナ禍の世界で、#完全メディアデトックス を5日間やってみた記録

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コロナ禍なう。

いま僕らは日々の情報に疲れている。

 

という流れの中、突如思い立って、完全メディアデトックスをすることにした。

 

 

後にブログを見返したときのために記録しておくが、この実験をしたのは2020年5月のゴールデンウィークである。現時点で、自分も含めてこの社会は新型コロナウイルスの情報に翻弄されていて、緊急事態宣言が長引くのか長引かないのかだったり、移動自粛を呼びかける反面で県外ナンバーに対して石をぶつけたりナンバーを晒したなどの不当な差別がみられたり、旅行業界や飲食業界を中心にして経済自粛死ぬわもうマジ無理・・みたいな世論が飛び交う日々の中であった。

 

この世界がこれからどうなるのかは今の自分にはわからない。筆者はただの会社員だ。感染症の専門家でも、政治家でも、あるいは預言者でもない。だから、その話題をここで語るつもりはない。後に歴史が全てを証明するだろう。

 

ただし、この事態で迎えるゴールデンウィークにあたって、感染拡大を防ぐために政府や自治体などが啓蒙していることがあって、それには従うべきだということだけは強く信じていた。それは、

 

・3つの密を避けましょう

・旅行を含め不要不急の移動はしないでください

・極論、ずっとお家にいてください

 

新型コロナウイルスとの戦いは団体戦であり、厚生労働省が言っているのだから異論を唱える気はない。地球に生きる一市民として、これを可能な限り実行しなければと思うところである。

 

ということで、カレンダー上は5日間の休みとなっている2020年ゴールデンウィーク。特に予定はない。人から誘われることはない。自分から遊びに行くこともない。人から用事や仕事を頼まれることもない。うちの夫婦には子供がいないし、どちらの親もまだ健常だ。あれ、もしかしたら、ここまで完全にアンチソーシャルになれる時間など、人生でそう何度もないのではないのだろうか。。

 

ということで、これを絶好機と捉え、#完全メディアデトックス という実験をすることにした。

 

 

#完全メディアデトックス の前に決めた5つのルール

  

「#完全メディアデトックス」という企画をする上では、きちんとルールを決めることが大事だ。人間は意志の弱い生き物なので、途中で挫折することがあってはならないからだ。

 

いろいろなことを考えた上で、以下のルールを決めた。
次の5つを遵守し続けながら、5/2-6までの5日間を過ごすことにする。

 

  1. スマートフォンには何があっても触らない。ただし、Jアラートや緊急地震速報があることを想定して、充電台の上で電源ONにはしておく。 ただし、強い意志を持ち、絶対に触らない。

  2. この期間は、電子デバイスだけ(いわゆるデジタルデトックス)ではなく、全てのメディアから離れる。テレビ、新聞、雑誌、書籍、ラジオ、一切触らない。ニュースだけでなくあらゆるコンテンツから離れるため、NetflixがつながるFireTVなどもいじらない。音楽も聞かない。Spotifyがつながっているスマートスピーカーなども、あればオフにする。

  3. 歩数や活動量などを記録する目的で、Apple Watchは腕につけておく。ただし、機内モードとシアターモードはオン。通知とWiFiはオフ。すなわち、時計、歩数計、心拍計としての機能以外は使わない状態にし続ける。

  4. 屋外広告などの情報を目にしてしまう可能性があるので、外出はしない。広告がないと確認できているルートを散歩するのみ。ただし、食料をまとめて買い出しに行くために一日目にのみ例外の時間を作る。このタイミングのみ、買い物リストのアプリを利用する必要があるので、例外的にスマートフォンを携帯しても良いことにする。

  5. 情報"消費"をしないことが目的なので、情報を"記録"するための媒体は利用可能とする。具体的には、紙のノートとペンで日記をつけることと、Wifiにつながらないデジカメを用意すること。ただし、カメラ内のメモリーカードの過去の写真は、全て消した状態にしておく。(NEX-5という10年くらい前の機種を久々に押入れの奥から出した。)

 

結果から発表すると、このルールを破ることなく5日間を過ごすことができた。一言で感想を言うと、初日と2日目はなかなかしんどかったが、3日目をすぎるとメディアを断つ辛さはそこまで感じなかった。おつかれ、俺。

 

なんせ社会性をぶった切る実験である。どうなるかと思ったが、映画「シャイニング」のように発狂することもなければ、幻覚を見ることもなかった。ラストシーンのように、妻に斧を振りかざすようなこともなかったので、そこは安心してブログを読み進めてもらえればと思う。

 

ということで前フリが長くなってしまったが、この実験を終えて得られた、7つの教訓をまとめて見ようと思う。

 

 

 

 

 

1:人間はインプットとアウトプットを行き来する生き物だ

1日目。目覚めるとスマホの充電台に足が向かう。いやーよくない。習慣化してしまっている。習慣化されている行動というのは自分の意識とは違う領域でコントロールされているんだなあーとか思ったのが、完全メディアデトックスのスタートであった。

 

ルール4に基づいて買い物をしたあとは、家の庭に苗を植えたりした。花壇からつくったのでなかなか時間がかかったが、これもこういうタイミングだから出来ることだ。

 

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ふだんなかなか整理しない場所の整理整頓もした。書斎で使用頻度が低いものをまとめ、押し入れに入れる。ケーブルがスッキリしたり、机が広くなったり、すごくかっこよくなった。右側の充電台にスマホがあるので、これを横目に掃除をするのははじめは辛かったけれど、そのうち気にならなくなった。

 

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散髪に3ヶ月ほど行っていないので、セルフカットに挑戦したりもした。これは片側だけ切ってみた時の写真。

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料理については、ナンの生地を発酵させたり、それからタンドリーチキンを焼いたりしていた。普段の料理は手軽な炒め物とかになりがちだけれど、時間があるとこうやって仕込みをする時間があるので良い。

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手掴みでインド料理を食べながら考えたが、メディアから離れることによって、1日は意外と多くの時間があるなあと思った。炊事をしたいとか、掃除をしたいとか、家庭菜園を始めたりとか、多くの時間を、消費から生産に使うことが出来るなあと感じた。

  

座ってスマホをいじったり、モニターに向かう時間が活動する時間に変わったので、1日の歩数も増えた。健康な生活の匂いしかしないわこれ。

 

 

 

特に昨今、新型コロナウィルスに関する情報収集の時間が多くなっている、あるいは多くなりすぎていることには反省すべきなのかもしれない。インプットも大事なのだが、自分の生活で何かをアウトプットすることに億劫になってしまっていることに気づく。

 

人の時間には限りがある。1日の中でどれくらいの時間をインプットに費やして、どれくらいの残りの時間アウトプットに費やすのか。コロナ禍でメディア消費時間は増えているようだが、自分の時間の使い方は、自分でコントロールできているのだろうか。このバランスについて、一度立ち止まって考える必要あるのかもしれない。

 

 

2:無駄なメディア接触時間を肯定してもいい

2日目。24時間以上メディアに接触していない状態が続いている。この段階になると、今まで情報収集に費やしていた時間って何だったんだろうと考えると同時に、効率的な情報収集とはなんだろうということを、嫌でも考えさせられる。

 

だからこの日は、そもそもメディアからの情報収集は、何のためにしているのだろうかということをずっと考えていた。言い換えると、情報という刺激によって人が変わるとしたら、その変わるものとは何だろうか。人は情報を得る、それはそこから何か行動に移すためだろうか?あるいは、意識を変えるためだろうか?いや、そもそも目的などなくて、単に、時間をつぶすために消費させられているのだろうか?

 

話は変わるが、長距離便の飛行機に乗ると、目の前にモニターがある。あれは長いフライトで抱えるストレスだったり、始めて出張で行く土地への不安感だったり、そういったものを緩和する目的で設置されているのではないかと思うことがある。

 

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人々は不安になったり、ストレスを感じるとメディアを消費したがる。だから、映画などのエンターテイメントは不安やストレスを払拭するのには最適なコンテンツだ。笑点やサザエさんなど、日曜日のテレビ視聴率は一般的に高いが、その理由のひとつに翌週の始まりを迎える前の不安感があるのかもしれない。人は何かで時間を潰さないと生きていけないときがある。

 

ところでこの章を読み返してみたが、なんだかコンテンツ制作者に対してひどい言い方になっているな。。。映画製作者の方々、テレビ局の方々、制作会社で日々悩みながら企画に励む方々、現場でカメラや音声を回している方々まで、ほんとごめんなさい。世の中には素晴らしいコンテンツがたくさんあると思います。

 

ちなみに最近観たコンテンツでよかったのは、ネットフリックスの「大地を継ぐもの(原題 Win the wilderness )」。キャンプ好きとか、オフグリッドな生活に憧れがあるとか、そういう人には向いている作品だと思う。BBC制作。

 

 

右往左往してしまったが、この章で言いたかったことはそういうことではなくて、無駄な情報収集しているなあ俺、という意識を持ちながら、その行為をすることが大切だという気づきだ。

 

目的もなく、ダラダラ映像を垂れ流してみていてもいい。そこからなにか行動に移さなくてもいい。自分の意識が変わらなくてもいい。 別にいい。

 

世間の大多数の人は、ミッション・インポッシブルを見たあとに、これから世界の悪と戦おうという決意をすることはないだろう。

 

あー、ただしジェームス・ボンドを見たあとに、ボンド・ガールを横にカンヌあたりのビーチでよろしくやりたいなあと思うことはあるかもしれない。まあ、大多数のイギリス男性はそう思っているみたいなことを、聞いたことがある。

 

オチがあまりうまくいっていない気がするが、まあいいだろう。無駄だとわかりながら情報収集に時間を費やすことを、ときには肯定しようということだ。ただ、きちんと「いまは無駄な時間!」と認識するのは大事で、それがメディアにコントロールされるのではなく、自分がメディアとの付き合い方をコントロールするということだ。

 

 

3:体系的な知識がないから、人はインフォデミックになる

3日目にもなると、メディアと距離を取ることにも慣れてきて、コロナ禍の中で自分がどのような情報収集をしていたのかを客観的に見返せるようになった。

 

ひとつはっきり気づいたことがあって、それは受動的なメディアをながめている時間が長かったなということだ。

 

受動的なメディアというのは具体的に言うと、目的意識がないまま見に行くメディアだ。自分にと行ってはTwitterが主なもの、あるいはテレビ(うちはテレビがないのでAbemaTVのニュースだが)がそれに該当するものだが、普段よりも接触時間が長くなっていたことに気づいた。

 

それは、新型コロナウイルスという未知のものが何なのかわからないため、自分から情報を取りに行くことができなくて、情報を無限に欲していたからだ。そして、その受動的なメディア接触は、四六時中続き、朝起きたとき、仕事の合間にコーヒーを飲むとき、お風呂に入った前後など、1日に100回以上はTwitterを開いていたんではないだろうかと思う。

 

(いや櫻井さんデフォでツイ廃だし1日100回とか生ぬるくないですか?というツッコミはなしでお願いします)

 

なお普段は、全身麻酔から醒めたあと、一番初めにすることがツイートが常識な世界観を持って生きています。Twitter上等。

 

あーTwitterは例が悪かった。ポジショントークになるのでもうやめて、別の言葉で言い換えようではないか。

 

能動的な情報収集のためには事前知識が必要ということだ。自分がある程度わかっているものであれば、効率的に知識を取りに行くことができる。経験や知識がある分野は、どのような情報源で必要なものが見つかるのか、知っている。

 

例えば天気予報が知りたいときには、天気アプリを開く。食べたいものが決まっていて、レシピを調べるときなんかもそうだろう。体系的にまとめられている分野の知識がほしければ、百科事典を開くけばいいし(いまはWikipediaに代替されてしまったが)、図書館に行って専門書を漁るなどすればいい。

 

ただし新型コロナウイルスに関しては、世界中の誰もが、その全容を知らない。だから情報収集は全て受動的にならざるを得ない。一体何が正しくて、どのような情報源を見に行けば正解なのか、誰にもわからない。仕方ないことではあるが、これが結構なストレスになっている日常が何ヶ月も続いているし、これからも続くことになる。

 

コロナ禍とは、全世界がロックダウンするだけという単純なものではない。全世界がインフォデミックになるということでもある現象である。

 

 

4:能動的に受動的な状態を作ることはできるのだろうか

日々の情報収集は大事だということを否定するつもりはない。今は受動的に情報収集をすることもやむを得ないだろう。ただし、一つ思ったのは「能動的に受動的な情報収集」をする形に変えることはできないだろうか、ということだ。1日のうち、朝のこの時間と、昼のこの時間と、夜のこの時間は世の中の動きや大きな発表をチェックする、といった具合だ。

 

思えば新型コロナウイルスに関するあーだこーだという草の根の論戦がこの3ヶ月あったと思うが、なにか役に立つ情報などあっただろうか。専門家会議や、内閣あるいは東京都、うちでいえば長野県知事の会見、このあたりの一次情報ソースをチェックするだけでも、自分の取る行動は変わらなかったのではないかとすら思う。

 

だからこれから求められるのは、「能動的な姿勢で、受動的なメディアを選んでいくこと」だ。いろいろ試して思ったが、マスコミが独自の視点で報道する記者会見のまとめよりも、生中継で見ていたほうが、専門家の危機感や各知事の姿勢など、言語以外の情報もインプットできて有益だった。一次情報をできるだけリアルタイムで見て考える。こちらのほうが、その後マスコミだったり非専門家のブログだったり、海千山千の情報を見続けるよりも効率がいいような気がするのだ。

 

 

5:結局、人は何かに対して中毒性を持ちつつ生きているのではないか

4日目。 ソーシャルメディアから離れてこのくらいの時間が経つと、自分がいかにそれらに中毒になっていたのかを見直す。

 

いや、こんな実験しなくても、スマートフォンの使用履歴をみればそんな事はとっくに気づいてはいたのだが、考えていたのは、結局何に中毒性を持って生きていたのだろう、ということだ。

 

SNS中毒、と一言で片付ける問題ではないのではない。むしろ、行き過ぎた社会性を持つことへの中毒だ。

 

SNSでのつながりは、半分プラットフォーム運営側に作られたものだ。おすすめユーザーはこの人です、この人は友達ではありませんか、こんなおすすめのコミュニティがありますよ、それらの提示に対してユーザーは反応し、つながりを構築する。

 

ソーシャルメディアはネットワーク外部性によってユーザー数を増やし、またユーザーひとりあたりの利用時間を増やしてきた。友人からの通知がありますよ、誰々が反応しましたよ、だからアプリを開いてくださいね、という具合だ。Twitterに勤めていたこともある自分が言うのもどうかと思うが、中毒性をもたせることが利用頻度や利用時間を増やし、広告収入につながるのだから、運営側は必死になってその中毒装置を開発する。

 

我々がひとつのツイートに反応するとき、それは本当に自分が反応したくてしているのだろうか?もしかしたら、メディア運営側に中毒にされているだけで、その行動すら誰かにコントロールされているのではないだろうか?

 

この完全メディアデトックスをする数日前、休業要請に応じないパチンコ屋と、そこに殺到する人たちが批判されて、ギャンブル中毒であることが問題視されるニュースを見た。

 

けれど、そういった人たちに対して、石を投げる資格は誰にあるのだろうか。人は結局なにかに中毒になって生きている。テレビを観ずに1日を過ごせない。LINEでやり取りがないと不安になる。朝イチでメールをチェックしないと罪悪感が生まれる。誰かにそれを必ずやれと言われたわけでもないのに。

 

人は多かれ少なかれ、恐怖に動かされている。そしてその恐怖を感じなくなったとき、人はその行動に対して中毒性を抱えていることになる。中毒性を断つのは困難だ。それは根本にある恐怖を克服しなければいけないからだ。ただし中毒性を意識せずに生きていくと、何も選べずに人生は終わる。恐怖に動かされるな。自分で何かを変えることを選択しろ。

 

 

 

6:リアクティブにならない状態を作り出せ

5日目。 この日は朝に1時間くらいの散歩をした。スマートフォンを触ることも、ニュースを知ることができない不安も、友人からのメールやメッセージを無視しているだろうということも、何も気にならない。ある程度、自分の思考が動じなくなった実感があった。

 

ふと、一昔前の海外旅行を思い出した。タイだったりベトナムだったりといった当時の新興国をバックパッカーとして旅し、携帯の電波が届かないような田舎町にたどり着く。ホテルにWifiなどなくて(あってもテキストメールくらいしかできない)、街のどこかにある外国人向けのカフェくらいしかインターネットにつながらなかった時代。LINEの無料通話などもなく、やろうとするならばパソコンからSkypeを開くくらいしか連絡方法はない。当然ながら日本からは、電話もつながらないし、メールを送ってくる人がいたとしても自分は何もできない。

 

そのときは、何者に対してもリアクティブ(受動的)にならないというマインドセットがあった。ただ、時代が流れ、今は飛行機の中でもインターネットが繋がる時代になってしまった。最後にこういう状態を経験したのはいつだろう。もう思い出せない。

 

この、「オフラインになってリアクティブにならない」状態をつくるのは難しい。前述したが、それはその「中毒性」から脱却しなければいけないことを意味するからだ。マインドフルネスと呼ぶべきなのだろうか?もちろん、ヨガや瞑想をすれば、1時間程度はそういった事ができるかもしれない。ただ、今回のように数日間やるとなると、全く別の体験になることはわかった。

 

 

7:アウトプットしたくなるのは、インプットすべき情報がなくなるからではないか

はじめに作ったルールの5つ目で、「情報を"記録"するための媒体は利用可能」とした。長い伏線だったが、最後の学びはこの点について。

 

ここまでの文字数をカウントすると、8000字近くの長い文章になってしまったことからもわかるとおり、5日間も何もメディアに接触しない(本や音楽も含む)と、どうしても何かしら情報のインプットをしたくなる心理になった。

 

突然、インプットをする方法が一つだけあることに気づいた。それは、自分が記録したアウトプットを、自分でインプットすることだ。

 

紙の日記をひたすら読み返す。5日間で撮りためた写真を再度眺めてみる。すべて自分が記録したものではあるが、それらは明らかにメディアの消費行動だ。

 

この実験は軽井沢町という、ブログ筆者の自宅がある地域で実施したものだ。軽井沢町には古くは文豪が集まり、日々執筆活動に精を出していたと言われる。家の近所には「風立ちぬ」で有名な堀辰雄の別邸が残っているし、川端康成、室生犀星、有島武郎なども滞在していた記録が残っている。

 

このような文学者について、自分のようなものが語る資格などないとは思うのだが、もしかしたらこの「インプットできる情報がないゆえ、自分がアウトプットすることでインプットできる素材を作らなければならない環境」というのは、文学の金字塔を立てる上で通過した境地だったのではないだろうか。意図的にインプットをゼロにすることは、なにか制作活動をする上でプラスに働くのは確かだろう。   

  

 

 

実験のレポートはここまで。ただしこの5日間を終えて、この期間での学び以上に、これからどう生きるかが本当の実験になる気はしている。

 

現場からは以上になります。

このブログ記事が、いつか誰かの役に立ちますように。

 

 

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このブログについて:とあるIT系企業に勤める会社員が、軽井沢から東京に新幹線通勤して、きちんと仕事がまわるのかを実験している記録です。新幹線通勤しようと思った背景はこちらの記事に書いています。

 

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